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その他の情報カルケドン公会議 カルケドン公会議において第一の議題は単性論の排斥であり、両性説といわれる説を採用した。それはキリストの人性は神性に吸収されてしまったのではなく、その二つの本性を、混合することも分かれることもなく、唯一の位格の中に有するという思想である。 また公会議ではネストリオス派も改めて排斥された。10月8日に単性論を採用したエフェソス強盗会議の議長であったアレクサンドリア総主教ディオスコロス(Dioscoros)が被告とされた。10月13日の第3回総会では、原ニカイア信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条と、ローマ教皇レオ1世(Leo I)がコンスタンディヌーポリ総主教フラヴィアノス(Flavianos)に宛てた書簡が朗読された。そして、レオ1世の書簡に基づいて23人の司教により起草されたカルケドン信条が10月22日第5回の総会で定められた。 カルケドン公会議(- こうかいぎ)は451年10月8日から11月1日まで、小アジアのビティニアの都市カルケドン(コンスタンティノポリスの対岸、現在のトルコ共和国イスタンブル市のアジア側にあるカドゥキョイ地区)において行われたキリスト教の公会議。東ローマ皇帝マルキアヌス(Marcianus)によって召集され、議長はコンスタンディヌーポリ総主教のアナトリオス(Anatolios)が務めた。キリストに神性と人性の両方があることを確認。正教会の一員たる日本ハリストス正教会では第四全地公会ともいう。 |
守護代 守護代の戦国大名化に伴い、守護級の格式を求められる大名家が増えていった。 その代表例は朝倉氏である。朝倉氏はそもそも、足利将軍家の有力一門で、代々三管領筆頭の地位を占めた斯波氏の被官であった国人の一人であった。応仁の乱では西軍に加担し、渋川氏から斯波氏を相続した斯波義廉を大将に守り立てていたが、東軍の総帥、管領 細川勝元の誘引により、東軍寝返りの見返りに越前守護に補任され、守護となった。しかし、旧主 斯波氏による訴えや幕府の斯波氏に対する同情から、しばらくの後、朝倉氏の守護職維持が難しくなり、三代将軍足利義満の次男で兄 足利義持に謀叛して倒れた足利義嗣の末裔が越前国に鞍谷御所と称し存続していたのを目につけ、斯波義廉の子に鞍谷御所を相続させて、足利義俊と名乗らせ、傀儡の越前守護に補任するよう手続きし、越前一国の実効支配を確保した。 出雲国の守護代 尼子氏も同国守護 京極氏の庶流であり、その重臣として出雲守護代を命ぜられた家であった。しかし、応仁の乱以降の戦乱において戦功を重ね、京極家中において実力を養うと主家を追い戦国大名化し、やがて守護の格式を手中にした。そもそも、出雲守護には代々京極氏が補任されていたが、京極政経に背いた尼子経久が主君を追い、出雲国を掌握し11カ国に拡がる大名へと成長していった。子の尼子政久が討ち死にしたため、家督を嫡孫に譲ると、経久は孫に将軍足利義晴の一字 晴の字を受けて尼子晴久と名乗らせ、また出雲守護補任を認めさせ、守護代から守護への格式へと家柄を向上させた。 |