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その他の情報東ゴート王国 東ゴート王国の建国は、476年に西ローマ帝国が滅びたことに始まる。ゲルマン民族の一派でスキリア族の出身であった西ローマ帝国の親衛隊長 オドアケルは、宰相の地位に収まっていたオレステスを討伐、彼の子で皇帝となっていたロムルス・アウグストゥルスを廃位した。 オドアケルは東ローマ帝国の皇帝ゼノンとの交渉により西ローマ帝国の宰相としての地位を得、またヴァンダル王国との折衝ではシチリア島の返還に成功、西ゴート王国は南プロヴァンスの割譲によって国境線問題を解決するなどの成果を収めた。 しかし、対外的な成功を収めたオドアケルは次第に東ローマ帝国の内政に干渉するようになり、公然と反ゼノン派を支持するようになった。このためゼノンは東ゴート族の王テオデリックと同盟を結び、イタリア遠征とその統治を約束した。 東ローマ帝国からの正式な要請を受けたテオデリックは、488年、民族を引き連れてモエシアを出立した。489年8月28日、イゾンツォ川に到達したテオデリックの軍は、オドアケルの派遣した軍と衝突、このイゾンツォの戦いでテオデリックは勝利を収め、翌月にはウェロニア(現ヴェローナ)に到達した。 ヴェローナのオドアケル軍に勝利したテオデリックは、続いてメディラヌム(現ミラノ)を占拠、当地でのオドアケル側軍事長官であったトゥファを味方に引き入れることに成功した。しかし、テオデリックの命でラヴェンナ攻略に向かったトゥファは再度寝返り、テオデリックの軍をティキヌム(現パヴィア)に後退させ、オドアケルの援軍とともに市を包囲した。 490年、西ゴート王国の王アラリック2世の援軍を得たテオデリックは、ティキヌムを包囲したオドアケルの軍勢を放逐すると、イタリア各地を占領、逆にオドアケルが籠城するラヴェンナを包囲した。海上を全面封鎖され、陸戦でも戦果を挙げられなかったオドアケルは、493年3月5日、ラヴェンナ司教ヨハネスの仲介により降伏した。テオデリックは彼を謀殺し、イタリア王に即位。東ローマ帝国の皇帝アナスタシウス1世は、497年に王位の認可を下し、東ゴート王国が成立した。 |
守護代 守護代の戦国大名化に伴い、守護級の格式を求められる大名家が増えていった。 その代表例は朝倉氏である。朝倉氏はそもそも、足利将軍家の有力一門で、代々三管領筆頭の地位を占めた斯波氏の被官であった国人の一人であった。応仁の乱では西軍に加担し、渋川氏から斯波氏を相続した斯波義廉を大将に守り立てていたが、東軍の総帥、管領 細川勝元の誘引により、東軍寝返りの見返りに越前守護に補任され、守護となった。しかし、旧主 斯波氏による訴えや幕府の斯波氏に対する同情から、しばらくの後、朝倉氏の守護職維持が難しくなり、三代将軍足利義満の次男で兄 足利義持に謀叛して倒れた足利義嗣の末裔が越前国に鞍谷御所と称し存続していたのを目につけ、斯波義廉の子に鞍谷御所を相続させて、足利義俊と名乗らせ、傀儡の越前守護に補任するよう手続きし、越前一国の実効支配を確保した。 出雲国の守護代 尼子氏も同国守護 京極氏の庶流であり、その重臣として出雲守護代を命ぜられた家であった。しかし、応仁の乱以降の戦乱において戦功を重ね、京極家中において実力を養うと主家を追い戦国大名化し、やがて守護の格式を手中にした。そもそも、出雲守護には代々京極氏が補任されていたが、京極政経に背いた尼子経久が主君を追い、出雲国を掌握し11カ国に拡がる大名へと成長していった。子の尼子政久が討ち死にしたため、家督を嫡孫に譲ると、経久は孫に将軍足利義晴の一字 晴の字を受けて尼子晴久と名乗らせ、また出雲守護補任を認めさせ、守護代から守護への格式へと家柄を向上させた。 |