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その他の情報ルキウス・ユニウス・ブルトゥス ブルトゥス家はタルクィニウス王家に対して憎悪を抱いており、元老院で強力な指導力を発揮し始めたルキウスの兄弟が殺害されるなど深刻な対立関係にあった。王家による危険分子への粛清の嵐が吹き荒れる状況の中、ルキウスはわざと愚鈍な人間を装い、王家の粛清を逃れる事に成功した。国王タルクィニウスはルキウスを無能だと侮り、彼なら自分の王位への脅威にはならないと判断して自らの側近に取り立てた。彼の名「ブルトゥス」は「阿呆」の意味であり、これは彼がいかに軽く見られていたかを物語っている。 王の信任を得たルキウスは王の息子の人間とギリシアのデルポイに神託を伺いに赴いたり、殊にデルポイの神託の折、タルクィニウスの息子は「次の王は誰になるか?」と聞いたところ、「母なるものに接吻する者」と返ってきた。「母なるもの」を「大地」と解釈してブルトゥスは地面に接吻したと言う。そしてローマに戻ると周辺の部族の制圧のため軍を率いて出征し、ローマを離れることが多かったという。 ルキウスがローマから離れていた間に、近親の既婚女性ルクレティアがタルクィニウスの息子セクストゥスに暴行され、辱めを受けたルクレティアが自らの胸を短刀で貫いて自死するという事件が起きた。伝説では、この報を聞いたルキウスが息絶えたルクレティアの胸に刺さった小刀を手に取り、「ただちにタルクィニウスの一族を追放させよ」とローマの民衆を煽動したと伝えられている。 ルキウスはすぐさま国王タルクィニウスとその一族をエトルリアへと追放させることに成功し、以後は王を置かずに、本来は王の諮問機関であった元老院に政務を担わせることとし、元老院の代表として2人の定員でプラエトルという役職を設置、亡きルクレティアの夫ルキウス・タルキニウス・コッラティヌスと共に自ら就任した。 |
守護代 守護代の戦国大名化に伴い、守護級の格式を求められる大名家が増えていった。 その代表例は朝倉氏である。朝倉氏はそもそも、足利将軍家の有力一門で、代々三管領筆頭の地位を占めた斯波氏の被官であった国人の一人であった。応仁の乱では西軍に加担し、渋川氏から斯波氏を相続した斯波義廉を大将に守り立てていたが、東軍の総帥、管領 細川勝元の誘引により、東軍寝返りの見返りに越前守護に補任され、守護となった。しかし、旧主 斯波氏による訴えや幕府の斯波氏に対する同情から、しばらくの後、朝倉氏の守護職維持が難しくなり、三代将軍足利義満の次男で兄 足利義持に謀叛して倒れた足利義嗣の末裔が越前国に鞍谷御所と称し存続していたのを目につけ、斯波義廉の子に鞍谷御所を相続させて、足利義俊と名乗らせ、傀儡の越前守護に補任するよう手続きし、越前一国の実効支配を確保した。 出雲国の守護代 尼子氏も同国守護 京極氏の庶流であり、その重臣として出雲守護代を命ぜられた家であった。しかし、応仁の乱以降の戦乱において戦功を重ね、京極家中において実力を養うと主家を追い戦国大名化し、やがて守護の格式を手中にした。そもそも、出雲守護には代々京極氏が補任されていたが、京極政経に背いた尼子経久が主君を追い、出雲国を掌握し11カ国に拡がる大名へと成長していった。子の尼子政久が討ち死にしたため、家督を嫡孫に譲ると、経久は孫に将軍足利義晴の一字 晴の字を受けて尼子晴久と名乗らせ、また出雲守護補任を認めさせ、守護代から守護への格式へと家柄を向上させた。 |