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その他の情報ファラオ クレオパトラ7世などのわずかな例外を除き、男性である。基本的に継承権はファラオの息子である第一皇子と娘である第一皇女にあるため、通常は第一皇子か第一皇女の夫が次代のファラオとなる。古代エジプトのファラオはしばしば実妹または実姉を娶っているが、これは神話に基づく面もあり(オシリスとイシスの伝説参照)、単なる近親婚ではなく女系に継承されている皇位を男系に実質的に継承させるための機能を果たしていた。 ファラオは神権により支配した。名前の一部にはホルス名、セト名といった神の名前が含まれ、ファラオの関係している神や、その神官グループとの繋がりを示す。 ファラオは公式の場では冠をかぶり、普段はネメスと呼ばれる頭巾をつけていた。ただしネメスは王族以外でも着用されていた。 肘を曲げ手首を胸に置いて腕を交叉させるのがファラオを象徴するポーズであり、通常ファラオのミイラはこの格好をしている。 現代エジプトでは、「民を虐げる圧政者」という意味で使用されることがある。例を挙げれば前大統領ホスニー・ムバーラクがファラオ(フィルアウン)と呼ばれた。 |
守護代 守護代の戦国大名化に伴い、守護級の格式を求められる大名家が増えていった。 その代表例は朝倉氏である。朝倉氏はそもそも、足利将軍家の有力一門で、代々三管領筆頭の地位を占めた斯波氏の被官であった国人の一人であった。応仁の乱では西軍に加担し、渋川氏から斯波氏を相続した斯波義廉を大将に守り立てていたが、東軍の総帥、管領 細川勝元の誘引により、東軍寝返りの見返りに越前守護に補任され、守護となった。しかし、旧主 斯波氏による訴えや幕府の斯波氏に対する同情から、しばらくの後、朝倉氏の守護職維持が難しくなり、三代将軍足利義満の次男で兄 足利義持に謀叛して倒れた足利義嗣の末裔が越前国に鞍谷御所と称し存続していたのを目につけ、斯波義廉の子に鞍谷御所を相続させて、足利義俊と名乗らせ、傀儡の越前守護に補任するよう手続きし、越前一国の実効支配を確保した。 出雲国の守護代 尼子氏も同国守護 京極氏の庶流であり、その重臣として出雲守護代を命ぜられた家であった。しかし、応仁の乱以降の戦乱において戦功を重ね、京極家中において実力を養うと主家を追い戦国大名化し、やがて守護の格式を手中にした。そもそも、出雲守護には代々京極氏が補任されていたが、京極政経に背いた尼子経久が主君を追い、出雲国を掌握し11カ国に拡がる大名へと成長していった。子の尼子政久が討ち死にしたため、家督を嫡孫に譲ると、経久は孫に将軍足利義晴の一字 晴の字を受けて尼子晴久と名乗らせ、また出雲守護補任を認めさせ、守護代から守護への格式へと家柄を向上させた。 |